2026.09.04
平安京のころの下着はどんなものだった?|日本の女性下着1000年の歴史
下着通販のSHIROHATOは京都の地で創業し、今年で61周年を迎えました。京都といえば千年の都。せっかくの節目ですので、その始まりの平安京のころ、下着事情はどのようなものだったのか——ちょっと気になって調べてみました。
結論から言うと、着物とともに歩んできた日本の下着は、長いあいだ「隠すもの」ではなく見せるもので、「締めるもの」ではなく巻くものだったそうです。平安京の時代からゆっくりたどっていくと、今朝えらんだ1枚の見え方も少し変わってきますよ♪
平安京のころ|下着は「見せる」ものだった
月岡雪鼎「源氏物語 若菜上(女三の宮と猫)」18世紀/メトロポリタン美術館蔵(パブリックドメイン)。緑の衣の下からのぞく紅色の長袴にご注目ください。
01.十二単のいちばん内側に着ていたもの
平安京の貴族女性の装いといえば十二単ですが、その何枚もの衣の最も内側、肌に直接触れていたのは小袖と呼ばれる白い絹の衣だったそうです。
下半身は長袴。腰で紐を結び、足元まで流れる袴だったそう。つまりいわゆる今の時代の下着は、この時代には存在していません。上は白い小袖、下は袴。それが平安の女性の「下着」でした。
02.「下着」はもともと見せる服だった
注目したいのは、当時の「下に着るもの」が人目から徹底的に隠されていたわけではない、という点です。
十二単の美意識の中心には重ね色目があります。袖口、襟元、裾から、下に着た衣の色を少しずつ覗かせ、その配色の妙を競う。下に着るものこそが、装いの主役だったとも言えます。
「下着」という言葉は、もともと重ね着の下の方の衣を指したため、そう言うようになったとも言われています。人の目に触れることを前提にした言葉だったというのも、現在の感覚からすると驚きですよね。
この語が現在のような意味、「肌に着け、人に見せないもの」を持つようになるのは、明治以降、西洋の下着概念が入ってきてからのことです。「下着=隠すもの」という感覚そのものが、近代の輸入品とも言えるかもしれません。
03.紅(くれない)という色のはじまり
上の絵でも見えているとおり、女房装束の袴は多くの場合紅色に染められていたそうです。紅は魔を退け、身を守る色と考えられていたとされます。赤い下着に縁起を担ぐ感覚は、この時代にもう芽生えていたことになりますね。
もうひとつ、のちの下着につながる衣があります。貴人の入浴を介添えする女房が腰に巻いていた湯巻。一枚の布を腰に巻くというこの簡素な形が、江戸時代の腰巻の祖形とされています。
では、この「巻く下着」はその後どうなっていったのでしょう。せっかくなので、平安京から現代までひと続きにたどってみます。
江戸時代|巻いて結ぶ、サイズのない下着
喜多川歌麿「高島おひさ(二枚の鏡で髪を見る)」1795年頃/メトロポリタン美術館蔵(パブリックドメイン)。着物を羽織る前の肌襦袢姿が描かれた一枚です。
01.江戸の女性の下着は3点セット
平安の湯巻は時代がくだるにつれて日常の衣になり、腰巻あるいは湯文字と呼ばれるようになったそうです。江戸時代の女性の下着は、上半身に肌襦袢、下半身に湯文字と裾除け。布を巻いて紐で結ぶ、という組み立てで完成していました。
この時代もやはり、股の縫われた下着はありません。平安から江戸まで、日本の女性は1000年近く「腰に布を巻く」スタイルを続けていたことになります。
02.どうして赤だったのか
喜多川歌麿「名君閨中之粧」1800年頃/メトロポリタン美術館蔵(パブリックドメイン)。襟元と裾からのぞく赤い襦袢が、当時の装いのアクセントでした。
江戸の女性たちの湯文字は、しばしば紅色に染められていたそうです。肌の血色を美しく見せる、腰を温める、魔を除ける。理由には諸説あるようですが、赤という色が下半身の下着に選ばれつづけたことは確かなようです。京都の紅花染めや友禅の技術も、こうした需要とともに育った側面があると言われています。
還暦に赤い下着を贈る習慣、なんとなく赤を選びたくなる勝負下着、初売りの赤い福袋。日本の売り場でいまも赤が特別な色でありつづけている理由は、平安の紅の袴から江戸の紅い湯文字まで、1000年分の積み重ねの上にあると言えそうです。
03.サイズという考え方がなかった時代
巻いて紐で結ぶ下着に、S・M・Lはありません。体つきが変わっても、産前産後でも、同じ一枚が使えます。身体を衣に合わせるのではなく、衣が身体に合わせて畳まれる——それが1000年近く続いた日本の下着の考え方でした。
この感覚、けっして過去のものではありません。ノンワイヤーブラやブラトップが支持されている背景には、素材や設計の進化だけでなく、この国の身体感覚に根を持つ「締めつけない下着」への親しみもあるのかもしれませんね。
明治・大正|洋装が「サイズ」を連れてきた
楊洲周延「女官洋服裁縫之図」1887年/メトロポリタン美術館蔵(パブリックドメイン)。ミシンとバッスルスタイルのドレス。洋装化がはじまった時代の空気が伝わってきます。
01.ズロースはなかなか広まらなかった
明治になると、鹿鳴館の時代に西洋のドレスとコルセットが紹介されます。ただしこれを着たのはごく限られた人たちで、大多数の女性の下着は相変わらず腰巻のまま。女学生が行灯袴をはいても、その下は変わらない、という状態が長く続いたそうです。
股のある下着はズロース(drawers)という言葉とともに入ってきましたが、当初はほとんど普及しませんでした。着物の構造と相性がよくなく、必要とされなかったからだと言われています。着用が広がるのは昭和に入ってから。洋装化、学校体育の普及、働く女性の増加といった変化が重なった1930年代を通して、少しずつ進んでいきました。
02.有名な「白木屋の火事」の話
この普及をめぐって、長く語られてきた話があります。1932年(昭和7年)12月、東京・日本橋の白木屋百貨店で大きな火災が起きました。このとき「和装で下着を着けていなかった女性店員が、裾の乱れを気にして救助をためらい、命を落とした。これをきっかけにズロースの着用が奨励されるようになった」というものです。
ただしこの因果関係については、当時の記録から裏づけるのは難しいと指摘されており、後の時代につくられた通俗的な物語と見られています(井上章一『パンツが見える。』などが検証しています)。有名な話なので聞いたことがある方も多いと思いますが、「そう語られてきた」という距離感で受け取るのがよさそうです。
明治以降に起きた変化を図にするとこうなります(編集部作成のイメージ図版)。
物語の真偽はさておき、この時代に起きた本質的な変化はほかにあります。紐で巻いていた下着が、身体の形に沿って縫われた下着に置きかわっていったということ。身体を測り、サイズに分け、型に入れる。今のブラジャーやショーツの考え方は、ここから始まります。
昭和|ブラジャーは京都から広まった
戦後、下着は「巻くもの」から「サイズを選ぶもの」へ(編集部作成のイメージ図版)。
01.日本のブラジャーのはじまり
1946年、京都で創業した一軒の商店が装身具の卸から出発し、やがて日本のブラジャーの国産化と普及を担っていきます(現在のワコール)。西陣織と染色の集積地で、和装小物の流通網が張りめぐらされていた京都には、繊維の技術と売る仕組みの両方が揃っていました。戦後日本の下着産業が京都から立ち上がったのは、けっして偶然ではないんです。
ちなみに当店の創業もこの時代の京都。平安京の重ね色目から数えれば、ずいぶん後発の61年ではありますが、下着が大きく姿を変えていく時期をこの街で過ごしてきたことになります。
02.「B75」という表記は日本で育った
1950年代、ブラジャーは「特別な人の洋装小物」から日常の衣類になりました。そしてここで、日本独自のものが生まれます。アンダーバストとカップの組み合わせ——B75、C70といった、おなじみのあの表記です。
インチ表記の国やヨーロッパ式とは違うこの体系は、戦後の日本市場のなかで育てられたもの。今も国内の売り場の共通言語になっています。ブラジャーを選ぶときに何気なく見ているサイズ表記にも、70年ほどの歴史があるんですね。
03.締めて形をつくる時代へ
ここからの流れは、時代の輪郭とそのまま重なります。1960年代、ミニスカートの流行がパンティストッキングを連れてきます。70年代にはボディスーツ。80年代にはワイヤーとパッドで体の形を「つくる」下着が主流になり、90年代前半には寄せて上げるブラが社会現象級のヒットを記録しました。
締めて、寄せて、形を整える。明治にはじまった「身体を型に入れる」という考え方が、ここで頂点に達したと言えます。
平成・令和|締めるから、ゆるめるへ
締めつけないかたちへ。素材と設計で「巻く下着」の心地よさに近づいています(編集部作成のイメージ図版)。
2000年代後半、カップ付きインナーが登場して売り場の風景が変わります。2010年代にはノンワイヤーブラが本格的に支持を得て、近年はサイズ展開の広さ、締めつけない着け心地、素材のやさしさといった言葉が売り場に並ぶようになりました。
ここで起きているのは、「身体を型に入れる」から「衣を身体に合わせる」への揺り戻しです。素材も設計も技術も、平安京とは比べようもありません。それでも向かっている方向は、腰に布を巻いて、体つきの変化ごと受け止めていたあの下着の考え方に、驚くほど近いのです。
つまり1000年のうち、およそ900年。日本の女性の下着は、巻くものであり、見せるものであり、赤いものだった。ぐるっと一周して、今また「ゆるめる」ほうへ戻ってきているところなんですね。
年表でおさらい|日本の女性下着1000年
時代別・女性の下着の組み立て| 時代 | 上半身 | 下半身 | この時代の考え方 |
|---|
| 平安 | 小袖 | 長袴(紅) | 下に着るものを見せて楽しむ |
| 江戸 | 肌襦袢 | 湯文字・裾除け | 巻いて結ぶ。サイズがない |
| 明治〜昭和初期 | シミーズ等 | ズロース(徐々に) | 身体を測り、型に入れる |
| 戦後〜平成初期 | ブラジャー | ショーツ | 締めて、寄せて、形をつくる |
| 令和 | ノンワイヤー・ブラトップ | シームレス等 | 衣を身体に合わせる |
「湯巻が腰巻の祖形」「紅は魔除けの色」などは服飾史・風俗史でひろく知られた通説ですが、一次史料での断定が難しい部分もあります。本記事では通説として紹介しています。
まとめ|平安の時に思いを馳せて、秋の夜長に
歌川広重「京都名所之内 嵐山満花」1834年頃/メトロポリタン美術館蔵(パブリックドメイン)
平安京の重ね色目から、江戸の紅い湯文字、そして戦後のブラジャー国産化まで。京都は、下着が姿を変えるたびにその現場に立ち会ってきた街です。SHIROHATOの61年も、その長い流れのほんの一部にすぎません。
締めつけないものを選びたい日、赤を選びたくなる日、色を見せて楽しみたい日。どれも1000年前からちゃんと続いている感覚だと思うと、下着選びがちょっと楽しくなりませんか♪
そんな下着ですが、創業祭ではお買い得アイテムも充実。平安の時に思いを馳せながら、秋の夜長にお気に入りの下着を探してみるのはいかがでしょうか?
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よくある質問
Q1. 平安時代の女性はどんな下着を着けていたのですか?
十二単の最も内側、肌に直接触れていたのは小袖と呼ばれる白い絹の衣だったとされます。下半身は腰で紐を結ぶ長袴で、多くは紅色に染められていたそうです。股の縫われた下着は平安時代から江戸時代まで日常的には使われておらず、いわゆる現代の下着はこの時代には存在していません。
Q2. なぜ赤い下着は縁起がいいと言われるのですか?
平安時代の女房装束の長袴が紅色に染められていたこと、江戸時代の湯文字にも紅色が好まれたことが背景にあるとされます。紅は魔を退ける色と考えられていたほか、血色をよく見せる、腰を温めるといった理由も挙げられます。還暦に赤い下着を贈る習慣も、この流れの上にあると考えられています。
Q3. 日本のブラジャーのサイズ表記は海外と違うのですか?
はい。B75・C70のように「カップ+アンダーバスト(cm)」で表す日本の表記は、戦後の国内市場のなかで育った体系です。インチ表記の国やヨーロッパ式とは数値の意味が異なるため、海外ブランドを購入する際はサイズ換算表の確認をおすすめします。